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ある帝国海軍予備士官の思い出話

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※画像はイメージです。

これは、当然ながら私の思い出話ではなく、私の先生の思い出話である。

 私が二級ボイラー技師の資格を取得したのは、在学中の高専4年生の夏のことであった。
 二級ボイラー技師の試験を受験するには、筆記試験の前に実務経験を積む必要があるが、その代わりとしてボイラー協会から派遣された講師による三日間の講義と、3時間の実習を受けることで筆記試験に臨むことが出来た。
 その三日間の講義で講師となったのが、私と同じ学校を戦時中に卒業し、帝国海軍予備機関科士官として輸送船に乗り組んだ経験の有る、結構たいそうなおじい様であった。

 学校は本当は5年半の教育課程があるはずだったのだが、戦時中の促成課程により三年半に短縮され、18歳で輸送船の二等機関士として乗り組んだのだそうだ。ちなみに私の場合、5年半の教育を終え21歳のときに次席三等航海士として乗り組んだのが船乗りの始まりである。平時と比べいかに促成であったかがお分かりいただけると思う。
 ろくすっぽ経験が無いのに、かなり年上の機関員相手に機関運転の指揮をしなければならず、気苦労が絶えなかったとのことである。
 だが後にもっととんでもない体験をすることになった。
 
 二等機関士の当直時間は夜と昼の0時から4時と大概決まっている。
 その日も昼の0時から当直として機関室に入っていた。だが、いつもと何か様子が違った。
 いつもならば、昼飯を食べ終わった、南方の戦場に向かう兵士たちが船倉から甲板に上がって放談する声が機関室天井の窓から入ってくるのに、その日に限ってシーンと静まり返っている。
 暫く様子を伺っていたがどうも怪しい。
 そこで、一人の機関員に様子を見に行く様指示したところ・・・。
 『オオドモ(真後ろ)から雷跡!!』なんと、真後ろから魚雷を撃たれて着弾寸前の所だった。
 シーンと静まり返っていたのは、魚雷の衝撃を避ける為に全員船の前のほうに逃げていたからで、機関室の中の人間の生存は絶望視されていたんだそうだ。
 
 結局魚雷は、奇跡的に船の真横1mのところを猛スピードで通過し沈没を免れた。
 その後、無事任務を終え、生きて復員が叶ったのだそうだ。

 ところで、戦時中といえば輸送船はまるで敵飛行機や敵潜水艦のいい標的のごとくバカスカと沈められた事は、皆様もご存知のことと思う。
 私の出身校の卒業名簿を見ると、昭和20年を境に物故者の数が歴然と違うことが目に見えて分かる。
 一説によれば、海軍に徴用編入された船員の6割が戦死したとのことである。

 四方を海に囲まれた日本で船に乗る資格を持つということはそういうことだ、とは理解しているが、せめて、無為無策の成れの果てでは無いことを運命の神様に祈るのみである。

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最終更新日:2016-04-12 16:50

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